自己紹介(大学まで国公立、就職で上京、未経験からITの仕事、東京での結婚、出産等)

みなさん、こんにちは!しゃけ子と申します。
このブログを更新していくにあたって、まずは自分のことを紹介する記事を書いておきたいと思いこの記事を作成しています。
この記事だけでなく、このブログのすべての記事が、私と似たような境遇の人、これから似たような境遇になりそうな人にとって何かの参考になればと思います。
もしかしたら、そのうち記事を分割してもう少し細かく書いていくかもしれませんので、その時はまたリンクを貼ろうと思います。
ご質問あればお気軽にお問合せくださいね。

簡単な経歴

私の属性を示すために、簡単に経歴を書いておきます。

  • 東北某県出身
  • 地方国立大卒
  • 東京に憧れ就職とともに上京
  • 職業は新卒からIT系一筋(アプリ系エンジニア→ITコンサル)
  • 転職回数は1回
  • 夫とは社内婚
  • 不妊治療(体外受精)の末、2児を出産
  • 趣味は漫画、ゲーム、お絵かき、編み物、ショッピング、楽器(ピアノ・クラリネット)、おかあさんといっしょ鑑賞等
  • ファッションはオフィスカジュアルなキレイめが好き
  • 産後ダイエット予定
  • 東京某所に戸建購入済み(35年ペアローン…)

出生~大学まで

東北の某県で生まれ、兄、姉を含む5人家族の末っ子として育ちました。
親は自営業であまり儲かっているとは言えませんでしたが、親自身が高卒で苦しい思いをしてきたということもあり、子供である我々にはそれなりの教育環境を用意したいと思っていたようです。
ところが、兄は都会の某私立大学卒、姉は某私立短大卒ということで、上の兄弟に予想外にお金がかかった結果、末っ子である私にはあまりお金をかけられないと言われてしまいました(^^;)
そこで、自分の意志に反して大学も地元の国公立を目指すことになりましたが、滑り込みセーフでなんとか合格することができました。
大学へは、自宅から通えなくもなかったのですが、田舎の本数の少ない電車(1時間に1本あるかないか)で1時間ほどかけて通うのが大変になり、途中から大学の寮(なんと家賃4,900円!)に住むことになりました。多少の仕送りはもらいつつも十分な金額ではなかったので、自分の好きなものを買ったり友達と遊びに行ったりするために、色々なバイトをしながら大学生活を謳歌しました。卒論はあまりきちんと研究できた内容ではありませんでしたが、ギリギリストレートで卒業させてもらえました(^^;)

就職活動

本当は大学から都会に出て色々なものに触れたいと思っていたものの、前述のとおりお金がないと言われてしまったので大学で都会に進出するのは断念しました。その代わり、就職活動は親がスポンサーとなるわけでもないので自由にやらせてもらい、東京の会社から内定をもらうことができました。
その会社は、私が通っていた大学のOBが何人か就職した実績があるとのことで、東京の会社であるにも関わらず私が通っていた地方の大学が主催していた就職説明会にも参加しており、私自身もそこで話を聞いて一次面接、二次面接と順当に進むことができ、内定を得ることができました。
地方出身者はある程度の年齢になるまで社員寮に入れる制度があったこと、IT系であるにも関わらず未経験でもシステムエンジニアとして採用してくれて、充実した研修でバックアップしてもらえるといったことが決め手となり、この会社に入ることにしました。

新卒~転職するまで

私はその会社(仮にA社としておきましょう)に新卒で入社し、未経験ながらもまじめに研修を受け勉強することで、システムエンジニアとして働くことができるようになりました。
一口にIT系やシステムエンジニアといっても多岐にわたるのですが、私は流通業系(卸、小売)の基幹システム開発を担当するエンジニアでした。実際にプログラムを組むのは協力会社の人たちでしたので、私自身はお客さんと話してシステム化の要件をまとめたり、設計書を起こして協力会社の人に依頼したり、プロジェクト全体の進行状況や予算管理といったプロジェクトマネジメントをしたりといった立ち回りをしていました。また、システムがリリースされた後の保守運用も担当しました。A社が開発したパッケージシステムもあったのですが、そのパッケージシステム自体の開発・バージョンアップ・導入支援といったことも経験しました。
システムエンジニアとしての仕事は私に合っていたようで、就職してからしばらくは仕事一辺倒で過ごしてきました。夜間や休日も返上して、本当に四六時中仕事のことばかり考えていたように思います。しかし、そんな日々は長くは続かず、だんだんと疲れてしまいました。当時20代後半で独身だったので、これから結婚や出産を控えているとなるとこの働き方ではとても続かないといったことも考えました。また、自分なりにより良いパッケージシステムを思い描くようになってきたのですが、その会社にいる人たちの思想や資金では到底それを作り上げることができないように思いました。そこで私は、他の会社に転職するという一大決心をするに至りました。

転職活動

最初何から始めればいいか悩んだのですが、まずはプロに話を聞いてもらおうと思い某大手エージェントに登録し、キャリアコンサルタントと面談しました。
私の経歴を話し、希望する働き方を話すと、大量の求人票を持ってきてくれました。どうやら、IT系の経歴は引く手数多ということで、転職先自体はたくさんあると言ってもらえました。その中で1つ気になる求人がありました。「システム監査」という仕事でした。大手監査法人のシステム監査であればこれまでのキャリアを生かすこともでき、年収アップも狙えるということを聞いたので、チャレンジしてみることにしました。結果、2社からシステム監査職での内定をいただき、そのうち直感で合うと思えた1社(これを仮にB社とします)に入社することにしました。
A社の上司に退職の意向を伝えたところ、当然引き留めにあいました(新卒から手塩にかけて数年育てた人材なので、情があるかどうかは不明でしたが、コスト的な観点では当然ですね)が、なんとか振り切ってB社へ入社することができました。

B社入社~結婚、出産まで

B社での仕事は、最初はシステム監査だと思っていたのですが、入社してみたらITコンサルの仕事でした。しかし、結果的に私にはシステム監査よりコンサルの仕事の方が向いていたように思うので、良かったと思っています。
B社では、A社に比べてとてもゆとりのある働き方ができました。私はA社に入社してからずっと残業のない生活なんて考えられないほど馬車馬のような生活をしてきましたが、B社では基本的に定時で上がらせてもらえました。残業するにしても常識的な範囲で、遅くとも20時くらいには上がれました。A社にいた頃は毎日終電に間に合うかどうかといった生活をしてきたため、これには驚きました。また、残業が減ったにも関わらず、給料は少し上がりました。しかも、私自身の経歴を生かしシステム開発の上流やPMOといった案件にアサインしてもらえたので、とてもやりがいがありました。同僚とも気が合い、ランチや飲み会、研修なども楽しく過ごせました。
B社で充実した日々を過ごしていたところ、同じ部署にいた現在の夫と出会いました。夫と結婚前提で付き合いだしてからは同棲、入籍、挙式、新婚旅行と怒涛の日々でしたが、仕事とのバランスもとりながら、実に楽しい日々を過ごしてきました。

妊活、不妊治療、出産

しかし、そんな愛しい夫との間には、なかなか子供ができませんでした。
婦人科にも通い、何度かタイミング療法を試してみたのですがうまくいきません。
そんな時、その婦人科の先生から、もし興味があるならと勧められたのが卵管造影検査でした。
検査した結果、私は左側の卵管が詰まっている(卵管閉塞)ことが判明しました。検査はものすごく痛くて泣き叫ぶほどで、詰まっている場合はかなり痛いのだと聞きました。
タイミング療法をしていた時に排卵のタイミングやどちらの卵巣から排卵されるか聞いていたのですが、私は卵管が詰まっていた左からの排卵が多いようだったので、自然妊娠は絶望的なように思いました。そこで、早く子供を持ちたいなら不妊治療をすべきだと言われ、不妊専門のクリニックを紹介してもらいました。
不妊のクリニックでは、最初にいくつかの検査をした後、ほかに不妊の原因は思い当たらなかったので、人工授精してみようという話になりました。しかしこれも失敗に終わったため、一気にステップアップして体外受精にチャレンジすることにしました。
採卵するための薬の投与(毎日自己注射するというもの)、採卵、培養といった内容を生理周期に合わせて行うため、仕事との調整も大変でしたが、幸い理解のある上司のいるプロジェクトだったため、全てをありのままに話して調整してもらいました。
幸い、4つの受精卵を作ることができ、早速全て凍結させてから1つを移植しました。受精してすぐの受精卵を移植(新鮮胚移植といいます)するより、一度凍結させた受精卵を移植(凍結胚移植)する方が成功率が高いのだそうです。こうして無事に移植することができ、幸い、その子も順調に育ちました。そして、初めての妊娠期間を楽しみながら過ごし、待望の第一子が生まれました。

第一子誕生~復職、第二子妊娠

一人目(息子なので、仮に太郎とします)が生まれてから、初めての子育てに翻弄されつつも夫と協力してなんとか過ごしました。そして太郎が7か月になった頃に保育園に入園させ、私はその翌月に職場復帰しました。ワーキングマザーとしてキャリアを再スタートしたのです。
ところが、育児と仕事の両立は思った以上に大変でした。太郎は保育園に通いだしてからよく発熱するようになり、慣れない病児の対応と仕事との両立に苦心しました。私も夫も地方出身なので、両家の両親を頼ることができない環境だったということもあり、なおさら仕事の調整をつけるのが大変だったというのもあるかと思います。また、当時は夫がストレス性の睡眠障害を患ってしまったこともあり、自分だけが家事も育児も仕事も頑張らなければ。という呪縛のようなものにとり憑かれていたようにも思います。しかし、そんな頑張りは長くは続かず、とうとう私も体調を崩し、当時参画していたプロジェクトをリタイアすることになりました。
プロジェクトをリタイアした後、改めて自分がどう働きたいのかを考えました。私にとって、何より大事なのは家族。家族や育児を第一にするため、上司と交渉し、アサインされるプロジェクトに条件をつけることにしました。残業、休日出勤、出張をNGにして、フレックスではありましたが、夜間の対応もしないこととしました。日中帯の9時~17時だけを就業時間とし、他の時間は対応なし。クライアントとの会議も含めて、全て調整してもらうようにしました。それから、全ての仕事はリモート勤務で対応することとし、オフィスへの出勤はなしにしてもらいました。また、プロジェクトの中でリーダー的なポジションではなく、アシスタント的なポジションで入らせてもらうようにしました。これは、私が子供の急病で仕事に穴をあけることを考慮して、私が急に休んだとしても他のメンバーで回してもらえるようにするための措置です。この希望を出して、もしそれでも私を使うのが難しいと言われたら退職するつもりでした。しかし、上司はこの働き方を受け入れると言ってくれたので、私はもうしばらくB社で働いてみようと思いました。
プロジェクトをリタイアしたのが8月頭。アサインされるプロジェクトへ条件提示したのが8月末ごろでした。一旦上記の条件を受け入れてくれると言われたものの、私自身、B社がこの条件を長い間飲んでくれるとは思っていませんでした。そのため、今後どうするのがいいのかを考え、夫とも相談した結果、早めに二人目の子供をつくって、もう一度産休に入り、少し考える時間を稼ぐという結論に至りました。聞こえは悪いかもしれませんが、そのくらい追い詰められていたのです。
人生そううまくいくことばかりではないかも…と思いつつ再度妊活を再開しましたが、これが思いのほかうまくいきました。1人目の不妊治療の時にできた受精卵が全部で4つあり、1人目は一発で着床したので、残り3つありました。そのうちの一つを私の体に移植したところ、こちらも見事一発で着床しました。話が逸れますが、この結果を見ると、私の不妊の原因は本当に卵管閉塞だけだったのかな、ということも考えたりしました。
幸いなことに、2人目の子供も私のお腹の中で順調に、すくすくと育ちました。ただ、太郎もいる、仕事もしている中での妊婦生活は想像以上に過酷でした。仕事においては、もともと上述のとおり条件を提示していたために、その年の年末くらいまでは順調に仕事ができていたのですが、年が明けてからある理由で退職者が続出したために人手不足に陥り、私はあるプロジェクトのリーダーを引き受けざるを得なくなりました。途中まではなんとかやりくりしていたのですが、2月に一家でコロナウイルスに感染したこと、3月に太郎の通っていた保育園でコロナウイルスが出たために10日間ほど保育園が休園となったことが重なり、私はとてもリーダーの仕事ができる状態ではなくなりました。仕事を休む期間が長くなっても仕事が減るわけではなく、むしろ溜まっていく一方。しかし、仕事を休んでいる期間は保育園を休んでいる太郎の相手もしなくてはならない。加えて、妊娠中でお腹はどんどん大きくなって動きづらくなっていた上に、順調な経過だったとはいえマイナートラブルがいくつか出ていたため、しんどくないわけではないため、とても仕事ができる状態ではありませんでした。休み明けに出勤するとまず状況把握から始まるため、就業時間内だけでは時間が足りず、作業を終えることができません。しかし、夜間の対応はしないという条件で働いていましたので、あくまで就業時間内でのみ作業していました。睡眠時間を削って夜間にこっそり仕事を進めることはできなくはなかったのですが、本来就業時間内で対応できなかった分をこっそりカバーしてしまうと、次のプロジェクトでも同じ対応をしなければならなくなると考えて、意地でもやらないと決めていたのです。そうしていくうちに、本当に首が回らなくなってきてしまい、とうとう破綻しました。私はそれ以上、そのプロジェクトのことを考えることができなくなりました。プロジェクトのことを考えると、お腹が張るようになったのです。妊婦検診でその旨伝えると、主治医の先生は「母性健康管理指導事項連絡カード」を書いて下さり、母体とお腹の子を守ることが第一だということで、私は休職することになりました。予定よりも3週間ほど早く産休に入ったようなものでした。こうして、私は思わぬ形でワーママをお休みし、二回目の出産に向けて準備を始めることとなりました。ワーママとして生活していたのは10ヶ月ほどの短い間でした。

2人目の出産~現在(2022年8月)

早めに休職に入れたものの、最初の2~3週間は体調の回復に努めました。しばらくぼーっとしながら生活していくと、心もだんだん回復してきて、お腹の張りもなくなりました。そのあたりから、出産に向けた準備を少しずつ始めていくことにしました。
1人目の出産では里帰り出産をしたのですが親とは色々な感覚が合わずにストレスをためて苦労したため、2人目は東京で出産すると決めていました。そのため、私が2人目を出産する時は、夫と上の子が二人だけで1週間過ごすことになります。夫は普段から子育てに積極的に参画してはおりましたが、普段は私と色々な部分で分担制にしていたため、上の子のお世話を全てやったことがあるわけではありませんでした。そこで、私だけが担当していたお世話については引継ぎが必要と考え、引継ぎマニュアルのようなものを作りました。また、万が一の時のためのベビーシッターサービスへの登録や、マタニティタクシーへの登録等も行いました。
上の子は37週で出産したので、2人目の子も早く出てくるものとばかり思っていましたが、2人目の子はなかなか出てこなかったので少し心配していました。胎動が絶え間なく感じられたことは救いでした。そうこうしているうちに39週を迎え、ある夜本陣痛がきてすぐに破水し、とうとう2人目が生まれたのでした。
現在は、2人目が生まれて2カ月ほど経った頃で、自身の体調や生活面もだいぶ落ち着いてきた頃です。

さいごに

私と夫は、子育てをしながらも、自身のやりたいことは諦めたくない、といった、少しワガママな気持ちを抱えています。色々と苦労するところもあるかもしれませんが、なんとか色々乗り越えて楽しく暮らしていきたいと思っています。
このブログは、そんな我々の暮らしの一部を切り取ったライフログのようなものです。
私の身の回りに起こったことを、少しずつ文字に書き起こして、同じような経験をされている・もしくはこれからされるかもしれない方への情報提供になればと考えています。
同じような境遇の方にも、そうでない方にも、何らかの形でお役に立てることを祈ります。
最後に、長々と私の身の上話を読んでくださり、ありがとうございました。今後もどうか、よろしくお願いいたします。